Into Great Silence
カルトジオ会の修道院の内部を撮影した映画。
画面から伝わってくる圧倒的な沈黙と静寂にただただ心を動かされた。
美しく理想的な生活。修道士の生活に強く心が惹かれる。
日本では『大いなる沈黙へ』という題名で公開されたそうだ。
ポジョディンゴンパ ブータン旅行3日目
3日目はティンプー市内の見学であったが、ガイドさんに相談して無理を言ってポジョディンゴンパへの1日トレッキングに変更してもらった。片道約2時間半~3時間。
シーズンであればパロからティンプーまでトレッキングが可能とのこと。
本堂。遥か下界を見下ろす位置にある。
お茶をご馳走になった。
写真の塀の先に瞑想道場があり、現在も何人かの僧侶が集中的な瞑想行を行っているとのこと。そのため一般人は立入禁止であった。
何時かこういった山の上に住み、静かな信仰のある生活を送りたい。
Zen mind, beginner's mind 鈴木俊隆(松永太郎訳)
「風の吹く日に松の枝が鳴る音が聞こえます。風は吹いているだけ、松は、風の中に、ただ立っているだけです。それが全てです。しかし、松の枝が風に鳴る音を聞いた人は、詩をつくり、またなにか普通ではないものを感じます。すべて、ものごとのあり方とは、そうしたものだと思うのです。」p118 自己を学ぶ
「Zen mind, Beginners' mind」は座右の書だ。この本は美しい禅解釈の本であり、我々を励ますための本でもある。読む度に大切なことに気付かされる。
引用は、結局人は多くの物語を生きており、その物語を生きるのが人生である、ということを端的に教えてくれる。多くのイメージと期待と落胆があり、喜び悲しみがある。徹底的に物語を気づき、物語から離れていくことが仏教なのだ。夢から醒めていくことだ。
以前禅定を目指して坐禅をしていた際の苦しい瞑想から救ってくれたのはこの本だ。テーラワーダの指導方法では瞑想の進歩が明確になっているが、瞑想が進まない場合それが苦しみとなってしまうことがある。求めるが、得られないという苦しみだ。行き詰まり。パーラミーという観点からの説明。
そういった観点からは道元禅師は限りなく修行者に優しく思い遣りがある。
Dhamma Kanchana
2013年にカンチャナブリにあるゴエンカ氏の10日間瞑想コースに参加した。
タイにはゴエンカ氏が組織したVippsana協会の瞑想センターが6つもある。ウドンタニ、コーンケン、ピッサヌロク、プラチンブリ、チャンタブリ、カンチャナブリだ。バンコクからはプラチンブリが一番近いと思われるが、会社を休める期間のコースが空いておらず、カンチャナブリを選択した。
DHAMMA KANCANA VIPASSANA MEDITATION CENTER, KANCHANABURI THAILAND
応募後、バス乗場の案内がメールにてあり、バンコク市内から瞑想センターまでのVippassana協会が手配する借上げバスにて移動。
カンチャナブリといっても、実際はカンチャナブリ市街中心部から車で更に2~3時間ほど進んだサンクラブリーの山の中に施設がある。ミャンマー国境沿いにあり、初めて訪れた際は随分騙された気がしたものだ…。自力で辿りつくのは相当難しいと思われるためバスの利用をお勧めしたい。
ミャンマー国境沿いということもあり、3割程度がミャンマーのモン族の参加者であったことは驚きであった。またタイでは恋人同士や夫婦で瞑想に参加するらしく記憶する限りでは6~8組くらいのカップルでの参加が目立っていた。
瞑想センターには日本語のテープも用意されており、日本人の受け入れも問題なしであった。ただし、瞑想のインストラクションはタイ語と英語である。
下記、写真のとおり参加者個人に個室が用意されている。宿泊した個室は温水シャワー付であった。日本の瞑想センターと比較すると設備が整っているように感じられる。
コースマネージャーと帰りのバスで隣同士の席になった際に「何故瞑想しているのか」と聞いたところ、「大好きな母親が亡くなったとき悲しくて悲しくて仕方がなかった。悲しみに耐えられなくなったとき、お寺で出家した。愛するものとの離別の苦しみと無常の教えを知って随分救われた。今は還俗したものの、タイ長老のもとで瞑想指導を受けている。」という話を聞いた。また如何にもお金を持って居そうな30代後半くらいの男性からは「会社で株式を運用しているもののロスが嵩み苦しい立場におかれている。精神的に参ってしまい、少しでもリラックスし休息するために瞑想コースに参加した」と聞いた。
赴任当時は、タイの仏教をミャンマーの仏教僧や仏教社会と比較してしまうことで肯定的に見れなかったが、改めてタイの人々の間には現実の苦しみや生活からの避難先として仏教が生きている、ということを知った10日間コースでもあった。
Achaan Dhammadaroの瞑想指南 『Living Dharma』
『Living Dharma』はJack Kornfieldが東南アジアの著名なテーラワーダにおける瞑想指導者の伝記、瞑想指導法などを紹介した本だ。Achaan ChaaやMahasi Sayadaw、Mogkok Sayadawなど、12人の瞑想指導者が紹介されている。
この中でも自身にとって特に興味深く有益であったのが、Achaan Dhammadaroの章である。
Jack Kornfieldは冒頭でAchaan Dhammadaroの瞑想指導の特徴を以下のように示している。
『Achaan Dhammadaro uses moment-to-moment awareness of sensation percieved in the body, feeling, and even in subtle movements of mind as a direct means of experiencing inner truth. In explaining the development of the meditaion, how mindfullness of sensation will lead us to experience all the sences directly at the heart base (the heart is traditionally known as the seat of mind). When all experience, even mind, becomes percieved as clear sensations arising and passing away at the heart base, wee see the truth of impermanence, suffering, and non-self.』P258
全ての経験に伴って心(Heart base)にて生じる生滅の感覚を感知することにより、無常、苦、無我の本質を観ることができる。
ゴエンカ氏のに10日間コースにてひたすらVedanaの生滅を観ていた時、強い感情や大きな音を聞いた際に、同時に心臓のあたりに感覚が感じられるようになった。注意深くみていると、歩くときにも食べるときにも足や舌、喉の感覚と一緒にわずかながら心(Heart base)に感覚が生じていることに気付いた。これは正しい感知なのか正しく実践しているのか不思議に思っていたが、タイに来て書店でこの『Living Dhamma』に出会って疑問が氷解した思いであった。
突然割れた水槽と水浸しとなった部屋…
会社で仕事をしていたところ、妻からTELが…。
何事かと思って電話にでたところ、『水槽が割れて水が噴水のように吹き出て大変。部屋が水浸しだから直ぐに帰ってきて』とのこと。
先日リセットして綺麗になった水槽でしたが、本日午前中『パキッ』という音とともに割れて中の水が噴水のように吹き出してしまったようです。何もしていないのに…。
上司に訳を話して許可をもらい速やかに帰宅。理解のある上司でよかった…。
水浸しの部屋と怒り心頭の妻を前にして、流石にブログ用に写真を撮る暇もなかったです(期待に添えずすみません)。水槽の近くにあったソファーも水浸しでした。
妻からは『もう水槽部屋に置いたら駄目だからね。絶対許さない。』ということを言われつつ、生体をベランダに置いてあるの空の水槽に移し、ひび割れた水槽の撤去を実施。毎週のように熱帯魚市場に出かけては水草と生体を買い足してきたこれまでを考えると泣けてきました。マンションのサービススタッフ(3人)にも片づけを手伝ってもらい、そのまま割れた水槽は撤去してもらいました。
中国製?の水槽が悪かったのでしょうか。
月曜の午前中から本当に疲れました…。皆さんも気を付けてください。
私のアクア生活も終わりを告げそうです…。